2012.04.27    カテゴリ:  古人に学ぶ 

   堅山南風 想い出のままに より抜粋

津々堂様のブログにヒントをいただき、
堅山南風の著書を読んだ。



熊本市出身で、
昭和の代表的な日本画家である堅山南風(明治20年~昭和55年)は、
江津湖の魚を描いたことがある。

堅山南風は著書「想い出のままに」の中で
次のように書いている。
以下、引用。





「大正十三年、前記の山中神風君と二人で故郷の江津湖畔の知人の別荘に滞在して、絵を描くことになった。江津湖は阿蘇からの地下水が滾々と湧く水前寺を水系としている清浄なる湖水で、熊本人遊山のところだ。この湖水で漁獲を業としている者が五十人近くいる。私達は彩管の合間、その漁船に乗せてもらうのを楽しみにした。鯉、鮒、鮠(はや)、鮎、たなご、地方名イダ、あるいはウグイとセイゴなども獲れた。私をそれを写生しているうちに、ふと前述の蘇山先生の事を思い出した。ここの魚類を題材にして出品してみようと描写したのが五連作の「魚楽図」だった。「魚遊ぶは楽しむ也」というのが中国の古詩にある由を教えてもらったので、題材にした。これがどうにか物になった。」






これは是非、”魚楽図”を所蔵する横浜美術館へ行ってみたい、
と思っていたところ、
熊本近代文学館で「江津湖の文芸展」が開催されてており、
堅山南風の色紙も展示されているようだ。

期間は平成24年4月25日~6月28日。



よかった。
まだしばらくある。




引用・参考:
想い出のままに 堅山南風 昭和57年9月10日発行 p.225 大震災と大観先生
ブログ「津々堂のたわごと日録」しびんた
熊本県立図書館・熊本近代文学館-温知館-ホームページ

2012.04.15    カテゴリ:  古人に学ぶ 

   私の履歴書(中村汀女)より 初夏の宵、小舟でみる蛍火

『ふわりとした初夏の夜闇(よやみ)は蛍(ほたる)の出る闇であった。

 父が舟を出して向こう岸の湧き水の浅瀬に連れてくれる。その清水の湧き口には白い野茨(いばら)の花が咲いて、そこに大きな蛍火がみだれあっていた。そこら砂地のくるぶしまでの水の流れが足にさからった。芹(せり)やクレソンがふかふかと生い茂り、沢がにを押える場所でもあった。

 何しろ、水辺のことはきりなく浮かぶ。ずいぶん前のことだが、星野立子さんが「江津湖のこと、あなたはしぼればしぼるほど書くことがあるのね」といい当てて下さったが、たしかにきりがない。そろそろ私も女学生、父はいわゆる画図の村長をやっていた。』


中村汀女120325


2012/03/25撮影 熊本近代文学館にて

引用:
私の履歴書 中村汀女(日本経済新聞 昭和47年5月13日~6月4日連載)⑤より

2012.03.26    カテゴリ:  古人に学ぶ 

   私の履歴書(中村汀女)より 釣りの楽しさを知る

『村人たちは江津湖のフナやコイを銛(もり)で突いた。父もその一員であり、大型のフナの、その銛傷から噴き出る血は、痛ましくもあったが美しくもあった。禁漁区でも、馬尾(まなお=細い釣り糸)一本釣りの漁だけは許されていたので、父には楽しみの釣り舟が、いつも塘(とも)の真下につないであり、ここから、私は生涯(?)の希望である釣りを覚えた。

 塘は大事な道路であり、一種の物見ごとき役を果たしていた。そこを出れば湖の対岸の村をながめ、遙か東方に阿蘇が横たわる。そこまでを約十里(40㌔)ほどの遠さと知ったのは後年のことであって、彼方東の空を区切る阿蘇連山までを、私は「わが国」-日本ともいいたき気持ちで過ごしてきた。山の彼方は見知らぬ他国であった。

 晴れた日には川には藻刈り舟があちこちに出た。細竿二本を入れてもぎとるのである。濃みどりの藻がたっぷり竿先に持ち上げられ、水の面をはなすとき、一ゆすりすると泥が洗われる。しかしその濁りはすぐまた澄んでゆく美しい水の湖であった。そういう藻刈り舟のあい間に父たちの釣り舟がまじる。私は幾つごろからその舟に座るようになったか。とにかく、父はどこにも連れていった。はじめは舟べりに胸を押えて、飽きなく水中をのぞいたのを思い出す。水の世界の面白さ、魚が走り、藻がなびく、そして水底にはまたさまざまのものが棲んでいた。手長えび、どぐら(なまりか)赤い腹のいもりもいた。ながめていると自分も水の世界の一員になっている思いであった。

 父が餌つけてくれた釣り竿を手にし始めた年を思い出せない。



 「ホイ、引いてるぞ」と言われて引き上げる糸に、ビンタ-たなご-がかかって来たそうした日から、私には世に釣りほど楽しいものはない気がしたのである。そして水棹(みざお)で舟をこぐことをを覚えた。舳(へさき)に立って棹を右に左にさしてゆくのは初歩。大人たちは、みな艫(とも)にいて、片側のみの棹どりで舟はすっすと進むのである。私にそのこつがやがてのみ込めた。

 阿蘇からの伏流がこの岸に来て清水となって湧くのだが、その湖底の砂地に、突き当てる水棹の快い感覚を私は知った。

(中略)


 私は舟に乗らねばならぬ釣りよりも、もっと手軽な岸で釣り竿をさし出したり、堀川と呼んでいた水田の間を流れる小川の、石橋に行って一人で釣った。そこにちらちらと見えているビンタを何匹か釣ればよいのである。』

絵はがき05-江津湖の釣り船



引用:
私の履歴書 中村汀女(日本経済新聞 昭和47年5月13日~6月4日連載)②より

2012.03.23    カテゴリ:  古人に学ぶ 

   私の履歴書(中村汀女)より 熊本の小湖のほとり

 「日露戦争はこの時代にはさまる。わが村からも何人か出征した。母がよく私を連れて遊びに行ったみつばあさんの家は、田んぼから吹き入る西風が涼しかったが、そこの縁側の柱をくるくる回りながら、私は「日本勝て」としきりに言っていた。」

 「さて戦勝、どこの村でも凱旋門を立てよとのお触れがでたようだ。
 父のところに皆が相談に集まり指示を仰いだ。そして成立したのが、各戸に一つは持ち合わせの藻刈り舟二そうを、堤の上に向かい合わせに押し立てて、その間に万国旗が渡された。私たち子供の誇らしかったこと。」

 「藻刈り舟と言ったが、江津湖という小さな湖水の岸の村々であり、それに沿う堤は、塘(とも)と呼ばれて加藤清正、いわゆるせいしょこ(清正公)さんが作ったというカーブ見事な長堤だが、村人たちはその湖水の藻を刈って肥料にし、禁漁区とはいえ、駐在の目を盗んで、フナやコイを銛(もり)で突いた。」

絵はがき22-水前寺の下流江津湖の景




引用:
私の履歴書 中村汀女(日本経済新聞 昭和47年5月13日~6月4日連載)①より抜粋

2012.03.23    カテゴリ:  古人に学ぶ 

   俳人 中村汀女

 かつて画図村の村長斉藤家の一人娘として生まれ、上江津湖畔で育った俳人中村汀女(1900-1988年)は、「汀女句集」の自序にこう書き残している。

「今は熊本市内だけれど、江津湖はやはり私にはもとの江津村がふさはしい。
湖畔の人たちは東遙かに阿蘇の山々を仰ぎつつ、田植、麦刈にいそしみ、その間に藻刈船を浮べ、夏に入る日は川祭の御神酒を湖に捧げる。私も朝夕湖を見て育った。走る魚の影も、水底の石の色も皆そらんじている。父母尚在す江津湖畔に私の句想はいつも馳せてゆく。」

絵はがき11-水郷水前寺の下流・江津湖の景


引用:
水郷画図の歴史(画図町町史刊行会 1985年)


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