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かくびんた

Author:かくびんた
70年代熊本市生まれ。
出水小卒。今は福岡。
♪画図の湖凪ぎて
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2012.07.23    カテゴリ:  古人に学ぶ 

   小橋一雄 折ふしの記 ”川ざかな”より抜粋 (穴釣り)

小橋一雄氏著の「折ふしの記」より引用

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 穴釣り


 二尺位の細い釣り竿に、ウナギ針を短くつけ、ミミズを刺し、川岸のウナギのいそうな崖穴に突っ込む。奥の方でグイと手ごたえがあったら、ソロリソロリ手元に引っぱりよせ、左手の人差指、薬指、中指の間にウナギを引っぱり込む。
 
 指で胴の処をキュッとしめつけ、動けないようにしてから、右手で針を取り、左手で腰の「ビク」に押し込む。もし「カニ」が食いついた時は、穴の口もとまで引きよせ、カニの甲羅が三分の一位出たとき、左手の「モリ」でグサッと突きさして獲る。優越感と言うか、征服感と言うか、何とも言えない嬉しさがこみあげてくる。



びくのウナギ120408
2012/04/08撮影 江津湖にて



引用:
折ふしの記 小橋一雄 昭和53年3月31日初版発行 p.134 川ざかな-穴釣り-

2012.07.21    カテゴリ:  古人に学ぶ 

   小橋一雄 折ふしの記 ”川ざかな”より抜粋 (張り込み)

小橋一雄氏著の「折ふしの記」より引用

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 張り込み(流しばり)


 八寸位の竹を杭のようにけずり、五尺位の丈夫な釣り糸を杭の上部に縛りつけ、ミミズを切らずに一匹のまま針につけ、夕刻、魚の集まりそうな「草むら」の中に杭をさし、糸は流しっぱなしにする。ミミズがクニャクニャうごめいているので、大きな魚(鯉、ウナギ、ナマズ、ドンカッチョ、大鮒等)が食いつく。
 
 翌朝、早起きをして引きあげ、手応えがあった時の嬉しさは何とも言えない。反対に、針が切られたり、餌が取られ、針だけブランとしている時は、何とも言えない淋しさを感じさせられる。

 誰か、私より早く来た者が、盗んだのかと思って、近くにある他人のものを引きあげてみると、魚がかかっているので、盗まれたのではない事がわかるが、うらやましさを感じる。

 収穫が少ない時は、早く起きた特権のような気持で、人の魚を失敬することがある。
 反対に、やられる事もあるので、早く起きるのが絶対的必要条件だった。祖父は、早起き訓練の意味で、これをやらせたと思う。



namazu110521-031.jpg
2011/05/21撮影 江津湖にて




引用:
折ふしの記 小橋一雄 昭和53年3月31日初版発行 p.134 川ざかな-張り込み(流しばり)-


2012.07.20    カテゴリ:  古人に学ぶ 

   小橋一雄 折ふしの記 ”川ざかな”より抜粋 (釣り)

小橋一雄氏著の「折ふしの記」より引用

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川ざかな

 幼少の頃、病気ばかりしていたので、小学五年になった春、祖父母に連れられて郷里熊本に行き、祖父から肥後流の鍛錬を受ける事になった。
 食べものの好き嫌いをなくす訓練、薄着の訓練、精神力の鍛錬、剣道の訓練、読み物の制限等々沢山あったが、その一つとして、川ざかなを獲る訓練があった。

 祖父は色々の獲り方を教えてくれた。


 釣り

 餌はミミズを使ったが、時々小さな「川えび」をザルで取り、丸いフタのついた壺のようなガラスの「オシロイビン」に入れ、熱湯をそそぐと、赤く煮え香りが出てくるので、魚が良く釣れた。

 ミミズの妙な臭いが嫌いだったので、この餌を使うことが多かった。私の屋敷は、水前寺公園の隣り(現在の料亭陣屋)だったので、庭の池は公園と同じように湧水だった。

 屋敷の中を流れる川も、川下の江津湖も、谷川のように水が澄んでいたので、釣れる魚は「アブラメ」「ドンカッチョ」「ヤマメ」等、谷川にいる魚が多かった。勿論、鯉や鮒もいた。

 「ハヤ」も沢山いた。夕刻、水面に浮かんで泡を立てているとき、羽のようなものが針のツケネについている「カガシバリ」を使った。「ピュッ」と針を投げこむと、虫と間違えてパクつく。それをヒッカケ、左手の「スクイアミ」で受けとった。手がよごれないので、風呂あがりによくやったものだ。


江津川の小魚120408
2012/04/08撮影 加勢川にて

  (中略)

《付記》
 幼少の頃の想い出ですから、名称その他色々間違ったところが沢山あると思います。何か、間違っていましたらご訂正願います。また、私の知らない獲り方がありましたらお聞かせ願います。必ず、変わった方法が沢山あったと思います。




引用:
折ふしの記 小橋一雄 昭和53年3月31日初版発行 p.133 川ざかな-釣り-

2012.04.27    カテゴリ:  古人に学ぶ 

   堅山南風 想い出のままに より抜粋

津々堂様のブログにヒントをいただき、
堅山南風の著書を読んだ。



熊本市出身で、
昭和の代表的な日本画家である堅山南風(明治20年~昭和55年)は、
江津湖の魚を描いたことがある。

堅山南風は著書「想い出のままに」の中で
次のように書いている。
以下、引用。





「大正十三年、前記の山中神風君と二人で故郷の江津湖畔の知人の別荘に滞在して、絵を描くことになった。江津湖は阿蘇からの地下水が滾々と湧く水前寺を水系としている清浄なる湖水で、熊本人遊山のところだ。この湖水で漁獲を業としている者が五十人近くいる。私達は彩管の合間、その漁船に乗せてもらうのを楽しみにした。鯉、鮒、鮠(はや)、鮎、たなご、地方名イダ、あるいはウグイとセイゴなども獲れた。私をそれを写生しているうちに、ふと前述の蘇山先生の事を思い出した。ここの魚類を題材にして出品してみようと描写したのが五連作の「魚楽図」だった。「魚遊ぶは楽しむ也」というのが中国の古詩にある由を教えてもらったので、題材にした。これがどうにか物になった。」






これは是非、”魚楽図”を所蔵する横浜美術館へ行ってみたい、
と思っていたところ、
熊本近代文学館で「江津湖の文芸展」が開催されてており、
堅山南風の色紙も展示されているようだ。

期間は平成24年4月25日~6月28日。



よかった。
まだしばらくある。




引用・参考:
想い出のままに 堅山南風 昭和57年9月10日発行 p.225 大震災と大観先生
ブログ「津々堂のたわごと日録」しびんた
熊本県立図書館・熊本近代文学館-温知館-ホームページ

2012.04.15    カテゴリ:  古人に学ぶ 

   私の履歴書(中村汀女)より 初夏の宵、小舟でみる蛍火

『ふわりとした初夏の夜闇(よやみ)は蛍(ほたる)の出る闇であった。

 父が舟を出して向こう岸の湧き水の浅瀬に連れてくれる。その清水の湧き口には白い野茨(いばら)の花が咲いて、そこに大きな蛍火がみだれあっていた。そこら砂地のくるぶしまでの水の流れが足にさからった。芹(せり)やクレソンがふかふかと生い茂り、沢がにを押える場所でもあった。

 何しろ、水辺のことはきりなく浮かぶ。ずいぶん前のことだが、星野立子さんが「江津湖のこと、あなたはしぼればしぼるほど書くことがあるのね」といい当てて下さったが、たしかにきりがない。そろそろ私も女学生、父はいわゆる画図の村長をやっていた。』


中村汀女120325


2012/03/25撮影 熊本近代文学館にて

引用:
私の履歴書 中村汀女(日本経済新聞 昭和47年5月13日~6月4日連載)⑤より

2012.03.26    カテゴリ:  古人に学ぶ 

   私の履歴書(中村汀女)より 釣りの楽しさを知る

『村人たちは江津湖のフナやコイを銛(もり)で突いた。父もその一員であり、大型のフナの、その銛傷から噴き出る血は、痛ましくもあったが美しくもあった。禁漁区でも、馬尾(まなお=細い釣り糸)一本釣りの漁だけは許されていたので、父には楽しみの釣り舟が、いつも塘(とも)の真下につないであり、ここから、私は生涯(?)の希望である釣りを覚えた。

 塘は大事な道路であり、一種の物見ごとき役を果たしていた。そこを出れば湖の対岸の村をながめ、遙か東方に阿蘇が横たわる。そこまでを約十里(40㌔)ほどの遠さと知ったのは後年のことであって、彼方東の空を区切る阿蘇連山までを、私は「わが国」-日本ともいいたき気持ちで過ごしてきた。山の彼方は見知らぬ他国であった。

 晴れた日には川には藻刈り舟があちこちに出た。細竿二本を入れてもぎとるのである。濃みどりの藻がたっぷり竿先に持ち上げられ、水の面をはなすとき、一ゆすりすると泥が洗われる。しかしその濁りはすぐまた澄んでゆく美しい水の湖であった。そういう藻刈り舟のあい間に父たちの釣り舟がまじる。私は幾つごろからその舟に座るようになったか。とにかく、父はどこにも連れていった。はじめは舟べりに胸を押えて、飽きなく水中をのぞいたのを思い出す。水の世界の面白さ、魚が走り、藻がなびく、そして水底にはまたさまざまのものが棲んでいた。手長えび、どぐら(なまりか)赤い腹のいもりもいた。ながめていると自分も水の世界の一員になっている思いであった。

 父が餌つけてくれた釣り竿を手にし始めた年を思い出せない。



 「ホイ、引いてるぞ」と言われて引き上げる糸に、ビンタ-たなご-がかかって来たそうした日から、私には世に釣りほど楽しいものはない気がしたのである。そして水棹(みざお)で舟をこぐことをを覚えた。舳(へさき)に立って棹を右に左にさしてゆくのは初歩。大人たちは、みな艫(とも)にいて、片側のみの棹どりで舟はすっすと進むのである。私にそのこつがやがてのみ込めた。

 阿蘇からの伏流がこの岸に来て清水となって湧くのだが、その湖底の砂地に、突き当てる水棹の快い感覚を私は知った。

(中略)


 私は舟に乗らねばならぬ釣りよりも、もっと手軽な岸で釣り竿をさし出したり、堀川と呼んでいた水田の間を流れる小川の、石橋に行って一人で釣った。そこにちらちらと見えているビンタを何匹か釣ればよいのである。』

絵はがき05-江津湖の釣り船



引用:
私の履歴書 中村汀女(日本経済新聞 昭和47年5月13日~6月4日連載)②より

2012.03.23    カテゴリ:  古人に学ぶ 

   私の履歴書(中村汀女)より 熊本の小湖のほとり

 「日露戦争はこの時代にはさまる。わが村からも何人か出征した。母がよく私を連れて遊びに行ったみつばあさんの家は、田んぼから吹き入る西風が涼しかったが、そこの縁側の柱をくるくる回りながら、私は「日本勝て」としきりに言っていた。」

 「さて戦勝、どこの村でも凱旋門を立てよとのお触れがでたようだ。
 父のところに皆が相談に集まり指示を仰いだ。そして成立したのが、各戸に一つは持ち合わせの藻刈り舟二そうを、堤の上に向かい合わせに押し立てて、その間に万国旗が渡された。私たち子供の誇らしかったこと。」

 「藻刈り舟と言ったが、江津湖という小さな湖水の岸の村々であり、それに沿う堤は、塘(とも)と呼ばれて加藤清正、いわゆるせいしょこ(清正公)さんが作ったというカーブ見事な長堤だが、村人たちはその湖水の藻を刈って肥料にし、禁漁区とはいえ、駐在の目を盗んで、フナやコイを銛(もり)で突いた。」

絵はがき22-水前寺の下流江津湖の景




引用:
私の履歴書 中村汀女(日本経済新聞 昭和47年5月13日~6月4日連載)①より抜粋

2012.03.23    カテゴリ:  古人に学ぶ 

   俳人 中村汀女

 かつて画図村の村長斉藤家の一人娘として生まれ、上江津湖畔で育った俳人中村汀女(1900-1988年)は、「汀女句集」の自序にこう書き残している。

「今は熊本市内だけれど、江津湖はやはり私にはもとの江津村がふさはしい。
湖畔の人たちは東遙かに阿蘇の山々を仰ぎつつ、田植、麦刈にいそしみ、その間に藻刈船を浮べ、夏に入る日は川祭の御神酒を湖に捧げる。私も朝夕湖を見て育った。走る魚の影も、水底の石の色も皆そらんじている。父母尚在す江津湖畔に私の句想はいつも馳せてゆく。」

絵はがき11-水郷水前寺の下流・江津湖の景


引用:
水郷画図の歴史(画図町町史刊行会 1985年)


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